上達の指南
(上)1目に懸けるプロの執念
(寄稿連載 2008/03/17読売新聞掲載) 第32期棋聖戦七番勝負、山下敬吾棋聖と趙治勲十段の第5局で、終盤、山下が着手放棄(パス)をした。七番勝負史上初の椿事(ちんじ)だけに、控室は騒然となった。日本棋院のインターネット中継「幽玄の間」はソフトの関係で「パス」に対応できず、その後の手順を中継できなくなった。
プロは、1目に命を懸けているといってもオーバーではない。その40手ほど前、趙が一手寄せコウを仕掛けていったのも、山下がパスをしたのも、1目を争ってのことだ。とくに山下の場合、負けとわかっていても、みすみす1目損をすれば、棋聖の名を汚すことになる。おそらく、そんな心境だったと想像される。
疑問を感じたであろうファンのため、現場を再現するとともに、「手入れの問題」にも触れてみたい。
【局面図】 右下に注目していただきたい。一手寄せコウとなっている。黒石はこのままで取れているのか、白は手入れが必要なのか――。趙が黒291とダメを打った。この瞬間、京都・東本願寺の別邸「渉成園」の対局室に「異様な雰囲気が漂った」と記録係の阪本寧生二段は振り返る。
午後7時1分、趙が山下に「立会人が必要だね?」。たぶん、山下は「ええ」と小声で答えたのだろう。趙が記録係に「立会人を呼んでください」。阪本二段が近くの控室に走り、立会人、坂口隆三九段が入室した。
【実戦図】 立会人が着席するのを待って、山下が「パスします」。この場合、趙にはパスと着手の二つの選択肢がある。趙は「打ってもいいんだよね」と立会人に規約を確認してから、黒293とコウを取ったのである。パスしても結果は同じだった。
黒309、白310とコウ立てをしたままで終局した形は奇異に映るが、「一手寄せコウは手入れ不要」の規約がある。
【参考図】 続けて黒1には白はパスをし、黒3で本コウになるが、黒5はコウ立てがなくパスするしかない。今度は白6と手入れをするが、黒1子が入っているため、結果は同じというわけだ。
(赤松正弘)
◇日本囲碁規約(要約) 第9条(終局)
一方が着手を放棄し、次いで相手方も放棄した時点で、「対局の停止」となる。対局の停止後、双方が合意することにより「終局」となる。停止後、一方が対局の再開を要請した場合は、相手方は先着する権利を有し、これに応じなければならない。 (1989年4月1日、改正施行)
●メモ● 阪本二段は貴重な経験を喜んでいる。「趙先生の記録係についたのは初めてでした。とにかく迫力に圧倒されっ放しで、最善の手を求める姿勢に感動しました。これから先生の打ち碁を勉強させていただきます」