上達の指南

棋聖戦第5局の椿事「パスします」

(下)「手入れの問題」二大事例

(寄稿連載 2008/03/24読売新聞掲載)

 第32期棋聖戦七番勝負、山下敬吾棋聖と趙治勲十段の第5局は、右下隅に一手寄せコウの形を残したまま終局した。これは日本囲碁規約の「一手寄せコウは手入れ不要」の一項に則ったものであった。
 「手入れの問題」については、日本囲碁史上、二つの有名な事例がある。これらを振り返り、日本囲碁規約制定への経移をたどってみたい。

 【呉-岩本戦】 1948年7月、呉清源八段(当時)と岩本薫和本因坊との十番碁第1局。本因坊は▲とコウを取り、次にイと、白1子を打ち抜く手を省略して、このまま終局と宣言した。呉八段は打ち抜くべきである、と主張した。この碁は白にコウ立てが少なく、ダメもない。当時はまだルールは慣習によっていた。この碁は白が黒の主張を入れても勝負には関係がなかったため、立会人の瀬越憲作八段(当時)が「白の1目ないし2目勝ち」と異例の裁定を下したのだった。主催紙・読売新聞社の報道でファンの関心が高まり、大倉喜七郎氏(後に日本棋院名誉総裁)の提唱により、翌年の日本囲碁規約の制定につながったのである。

 【呉-高川戦】 1959年1月、呉九段と高川秀格本因坊との三番碁第2局(毎日新聞社主催)。終局の場面で、白地には黒イと切り、白ロ以下、符合順に白へで本コウになる手段が残っている。手を入れれば白の半目負けだ。本因坊は囲碁規約に従っての手入れを主張し、呉九段は実戦的に不要説を証明して見せた。立会人の長谷川章七段(当時)は「黒の半目勝ち」と裁定した。数日後、呉九段は新聞社の仲介などによって「白半目負け」を受け入れると同時に、囲碁規約の不合理な点についてすみやかに善処するよう日本棋院に要望した。この問題が契機となって「囲碁規約改正委員会」が生まれる。

 現在は国際棋戦の時代となっている。それは開催国のルールで行われているが、統一ルールの確立が必要なことは言うまでもない。北京五輪後の今年10月には、囲碁やカードなど、初の世界マインドスポーツ大会も開催される。
(赤松正弘)

   ◎日本囲碁規約(要約) 終局の手入れの問題
 コウの形が一手コウ(本コウ)となっていてただちに手段が生じる場合は手入れを要するものとする。
  ヨセコウで手段となるものは手入れを要せず。(1949年10月2日から施行。現行規約では図を入れて、もっとくわしく解説している)

●メモ● 呉九段は1939年からの十番碁で、木谷実、橋本宇太郎、高川格など7人の棋士と対戦、ことごとくを先相先、または先に打ち込み、最強の棋士の名をほしいままにした。93歳のいまも研究の毎日。今期棋聖戦七番勝負第6局にも元気な姿を見せた。

【呉-岩本戦】
黒 本因坊薫和、白 呉清源八段
【呉-高山戦】
黒 本因坊秀格、白 呉清源九段