岡目八目
(1)居酒屋で習った囲碁が原点
(寄稿連載 2012/04/10読売新聞掲載)◇かとう・まさと
JR池袋駅北口から平和通りを川越方向に向かい、履物屋の角を左に曲がって少し進むと「あさ」という酒場があった。
一枚板の大ぶりのL字型カウンターがあり、テーブル席と囲炉裏が切ってある椅子席、そして小上がりがあり、床ではゴンという名の犬が寝そべっていた。
三十数年前、私は、脚本家になるという夢を抱きながら、週に何日かこの店でアルバイトをしていた。
女将(おかみ)のあささんは、戦後池袋駅前にできたマーケットで居酒屋を経営していた。店がその場所に移ってからも、当時からの客が多かった。
画家、小説家、文芸評論家といった錚々(そうそう)たる面々がこの店に通っていた。
戦後の香りを残す素晴らしい酒場だった。
この店の小上がりに、碁盤が置いてあった。常連客がお酒を飲みながら対局するための碁盤であった。
ご主人は画家で、小説家の檀一雄さんとも交流のある自由人であった。このご主人から、私は囲碁の手ほどきを受けた。
当時の私は今風に言えば脚本家志望のフリーターであった。お金はなかったが、時間だけはいくらでもあった。暇に飽かして、よく意味もわからないまま本因坊全集の棋譜を並べてみたりした。
9子を置く井目(せいもく)で始めた対局であったが、一子、また一子と置き石が少なくなっていった。そうして私はたちまち囲碁の虜(とりこ)になった。
これが、私の囲碁の原点だ。
運良く脚本家としてデビューできたが、その年、区画整理を機に酒場は店じまいしてしまった。
(脚本家)