岡目八目
(1)木谷家、大所帯の暮らし
(寄稿連載 2009/03/09読売新聞掲載)◇きたに・まさみち
物心ついたとき、わが家には内弟子がいた。
昭和二十六年十一月に小学五年の戸沢昭宣さん(九段)が北海道・函館から入門し、十二月には三年生の大竹英雄さん(日本棋院理事長)が行李(こうり)一杯の宝物と一緒に九州からやってきた。僕は四歳。
父、木谷實(みのる)が全国に巡業に出かけるたびに弟子が増え、最大時は十六人になった。
僕は三男で七人きょうだいの末。両親、祖母、居候のお年寄りを含め、三十人の騒々しい家族だった。父は子ども全員を碁打ちにしたかったらしく、皆、手ほどきを受けた。しかしプロになった姉の禮子は別として、兄姉は早目にこの世界から撤退し、男では僕が最後の可能性だった。
小学時代は弟子部屋で寝起きし、毎日、合宿のような生活を送った。日本棋院にも院生として通った。
加藤正夫さん(名誉王座、故人)、佐藤昌晴さん(九段)、春山勇さん(九段)らが一年上で、石田芳夫さん(二十四世本因坊)が一年下。きょうだい以上のきずなができた。
他の弟子と同じように僕は父を「先生」と呼び、弟子たちは母を「お母さま」と呼んでいたから、わが家を訪れたお客様は、誰が実の子どもなのか分からなかった。まことに変わった家庭環境だったが、それに気がついたのは、ずっと後のことだ。
中学一年のときに、僕は父の前に両手をついて「碁をやめさせてください」と頼んだ。「そうか」の一言で許されたのだが、あまりにあっけなかったので子どもながらに少々不満だった。父には息子の才能の限界が見えていたのだろう。
(暮らしと耐震協議会理事長)