岡目八目
(4)「本能寺の碁会」は夢幻なり
(寄稿連載 2010/02/23読売新聞掲載)通ひ路の中へ碁盤の関を据え
人妻のもとへ忍び通う、若い八幡太郎義家を詠む雑俳(川柳)である。原話は『古今著聞集』にあるが、源義家には別の囲碁逸話も伝わる。
うちうたず君が手並みを知らぬ間は浜の真砂ぞあやぶまれける
これは少し下って源三位頼政の「囲碁」と題した和歌だ。
頼朝にも碁会の逸話が『爛柯(らんか)堂棋話』に載る。ただ、この記事を伝える『吾妻鏡』は、「建久元年…、栄中双六御会有り」と、碁ではなく双六とする。『吾妻鏡』には和田義盛、北条時房、北条時頼などの鎌倉武人にかかわる囲碁逸話が記されている。
室町期になると、幕府に同朋衆がおかれるように、武家自身が芸能の担い手となり、足利義教、細川勝元、北条早雲といった武将たちの逸話が伝わる。
戦国時代には信長、秀吉、家康の天下人から、武田信玄、高坂弾正、細川幽斎、真田昌幸、浅野長政、黒田如水、伊達政宗など、囲碁逸話を伝える武将は枚挙にいとまがない。中でも有名な伝説は、「本能寺の碁会」と「秀吉が本因坊に与えた朱印状」であろうか。
変の直前に催されたとされる「本能寺の碁会」は、江戸期の随筆にある記事が典拠らしいが、史料としての記録はない。茶会の余興として囲碁が打たれたとするようだが、当夜の茶会についても研究家は否定的である。「秀吉の朱印状」も、本因坊家伝書『伝信録』に記されるものだが、裏付ける史料はない。
伝書には「創られた」伝説は多い。私も両伝説には懐疑的な見解をもっている。
(囲碁史研究家)(おわり)