岡目八目

宮沢吾朗さん

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(3)秀策「耳赤の一手」も旅の対局

(寄稿連載 2015/09/08読売新聞掲載)

 父、四郎が本州の旅を終え、青函連絡船で津軽海峡を渡ったのは昭和5年(1930年)12月初旬でした。函館、余市、札幌、岩見沢、旭川、帯広など20か所をまわり、4か月間で250人と対局したのには驚かされます。対局場所は「八雲病院」「夕張鉱倶楽部」「富良野町鉄道倶楽部」「旭川棋道研究会」などと記されています。

 千葉の松戸を振り出しに訪ねた場所は59か所、対局者数は400人を超えます。父にとっては楽しく、張り合いのある旅だったでしょう。

 碁打ちが旅をしながら対局するのは江戸時代から盛んでした。幕末の天才、秀策も各地に逸話を残しています。

 秀策は広島・因島の出身。10歳を前に江戸に出て、33歳の生涯を閉じるまでに4回里帰りしています。2回目の帰郷を終え、江戸に向け出発した弘化3年(1846年)、大阪に逗留(とうりゅう)していた十一世井上幻庵因碩と対局する機会を得ました。

 この時、数局打った中に「耳赤の一手」の一局があります。この碁は秀策が苦戦し、誰もが因碩の勝ちを疑わなかった。しかし長考の末に打った127手目が不滅の妙手で、考え込んだ因碩の両耳が紅潮してきたのを観戦者の医者は見逃さなかった。結果は秀策の先番3目勝ちでした。

 また嘉永4年(1851年)、秀策は松代藩士、関山仙太夫の求めで信州に赴いて定先二十番碁を打ちました。多少の手心はあったものの、仙太夫は7勝13敗と善戦しました。仙太夫は本因坊烈元に学び、棋力五段格とされましたが、生涯初段で通しました。囲碁のほか武芸も奥義を窮め、文武両道の人として知られます。

(囲碁棋士九段)