岡目八目

中田敬三さん

中田敬三さん

(2)本因坊秀策隠密説の真相は…

(寄稿連載 2005/01/24読売新聞掲載)

 一通の手紙、一枚の棋譜が囲碁史に新しい発見をもたらし、空白を埋めることがある。

 嘉永四年(一八五一)六月、十四世本因坊秀和の跡目秀策は、信州旅行をした。

 旅の目的は、松代藩士関山仙太夫との対局だった。仙太夫は十世烈元以来の本因坊門で、免状は初段だが、五段格で打つことを黙許され、日本一の素人棋客と評判が高い強豪だった。この時六十八歳。生涯の思い出にと、碁界のエリート秀策を招いたのだった。

 秀策はこの旅は気が進まなかった。出発前、故郷の父親へあてた手紙に「信州は誠に以て田舎故嘸々(さぞさぞ)薄謝の儀と此度の旅行は楽しみ申さず候」と書いている。

 対局は六月二十三日まで二十日間連日、二十番打たれた。このあと秀策が一時行方不明になる。

 師秀和が仙太夫に書いた手紙が長野市に残っている。仙太夫が二十番碁の棋譜を送ったことへの礼状だが、中に「秀策儀未帰府不仕何方ニ罷在候や」というくだりがある。秀策がまだ江戸へ戻らないが、どこへ行ったのだろう、と心配しているのだ。

 当時、囲碁の家元や跡目が江戸を離れる時は、寺社奉行に届けなければならなかった。手紙の日付からすると、一か月以上連絡がないことになる。そんなことから秀策隠密説が生まれる。囲碁対局に名を借りて、信州各藩の動静を探っていたというのだ。

 この十年来、松代以後の秀策の動向に関する資料が次々に見つかっている。それらは秀策が、松代から北の現須坂市の旧家へあてた手紙であり、南の松本市、塩尻市で地元棋士と対局した棋譜だった。

 実は秀策は二十番碁のあと、仙太夫から二十両の謝礼をもらい、あまりの多額に驚いたエピソードがある。懐が豊かになった秀策は、師への連絡も忘れて、のんびりと信州路を旅したのだろう。

(囲碁史研究家)