岡目八目
(3)「三の日会」碁界再生に情熱
(寄稿連載 2005/01/31読売新聞掲載)江戸時代、囲碁・将棋は幕府によって保護奨励された。碁界は寺社奉行の管轄下におかれ、家元には俸禄(ほうろく)が与えられた。
十四世本因坊秀和の時代(弘化四年本因坊就任)、全国の有段者は四家(本因坊・井上・林・安井)合わせて四百人に及び、史上最高の隆盛ぶりだった。だが、外国船の来航、勤皇・佐幕の対立など内外の情勢緊迫化で、文久元年を最後に約二百三十年間続いた御城碁が中止される。明治維新によって碁界は幕府の保護を失い、秀和は明治六年、落魄(らくはく)の中で没し、囲碁は全く沈滞してしまう。
それを再生させたのは、囲碁に情熱を傾けた若い棋士たちだった。
囲碁史研究家の故林裕氏が書いた「明治囲碁史」に「幻の三の日会」と題して「幕末から明治の過渡時代、『三の日会』があったが、実態は明らかではない」とある。
十年ほど前、「週刊碁」に「碁林散策」という囲碁史に関する記事を連載中、熱海市の読者から「秀和、秀甫の手紙がある」という連絡を編集部を通じて受けた。そこには、思いがけない発見があった。秀甫の手紙に「三の日会」の全記録が記してあったのだ。
毎月三の日に開いたことから命名された会に参加していたのは、一人を除いて、村瀬秀甫を中心に二十四歳までの若者たちだった。しかも各家を横断しての研究会で、騒然とした世情の中で囲碁に打ち込む姿が彷彿(ほうふつ)として浮かんでくる。
このグループが、明治十二年に発足した初めての民間の囲碁結社「方円社」のメンバーとなった。「方円社」はその後曲折を経て、現在の日本棋院へとつながっていく。
昨年十一月十五日、日本棋院創立八十周年記念式典が行われた。パーティー会場の片隅で、幕末から明治にかけて囲碁の火を燃やし続けた若者たちをふと思い出したものだった。
(囲碁史研究家)