岡目八目
(1)富士通杯創設直前にクレーム
(寄稿連載 2007/03/19読売新聞掲載)◇なりた・まさる
本年4月、世界囲碁選手権・富士通杯は初の本格的国際棋戦として創設以来、節目の20回目を迎える。設立当時の国際棋戦は、日中対抗戦の時代で、文革後の日中囲碁決戦、1984年に始まった日中スーパー囲碁が話題をさらっていた。
囲碁の国際化のために国際棋戦創設の機運が高まり、主催が読売新聞社、日本棋院、関西棋院、協賛が富士通の陣容で事務局が置かれ準備が進められた。1988年1月に棋戦発表を行う段取りまでできたところで、中国側から出場棋士数と台湾の参加についてクレームがついた。
事務局案は出場棋士16人のうち、日本が7人、中国と韓国が各3人、台湾と米国、欧州が各1人であった。話し合いたいので来て欲しい、と北京から招待状が届いた。両棋院の大枝雄介、宮本直毅両常務理事と、スポンサーとして富士通宣伝部長であった私の3人が、1987年末に北京へ飛んだ。
中国体育委員会の幹部が私たちを取りかこみ、中国オリンピック委員が開口一番、今回の問題は外交問題に発展しかねない、と大上段にでた。中国の3人は絶対に承服できない。中日スーパー碁の聶衛平九段11連勝を、日本は正しく評価していない。台湾が参加するならば中国は参加できない、と攻めてくる。中華台北の地域名ならば可能性はあるが、今から国の承認を得るには時間的に間に合わない、であった。結局、妥協案として台湾の参加を次回にまわし、中国の人数を4人とした。
帰国後、韓国棋院に根回しに行った。名誉理事長の趙南哲九段(故人)の意見は、参加できることに感謝する、であった。
現在までの中国の優勝は第8回の馬暁春九段1人。肝心の聶衛平九段は第1回の3位、第3回の2位で終わった。
外交問題にからめる交渉は、むしろ過度な期待が棋士たちのプレッシャーとなって、勝てなかった後遺症のほうが大きかったように思う。
(富士通元宣伝部長)