岡目八目
(3)故池田敏雄専務の願いが結実
(寄稿連載 2007/04/02読売新聞掲載)富士通が世界囲碁選手権・富士通杯の創設にかかわったのは、日本のコンピューターの父と称され、富士通のIT産業の基礎を築いた故池田敏雄専務の願いが原点だった。1923年東京生まれの池田の囲碁活動は多彩だった。
囲碁の世界選手権が行われるようになれば、国際的に通用する合理的な囲碁ルールが必要と唱え、日本、中国、台湾ルールを比較研究し、コンピューターによる囲碁も視野にいれ、将来の国際ルール確立のための材料を提供する意味で「囲碁ルール試案」をまとめた。宮本直毅九段の協力を得て、1968年11月から1969年9月まで雑誌「囲碁新潮」に発表した。この試案は欧米の数学者や物理学者、技術者などによるルール研究者たちに大きな影響を与えたと聞くが、いまだ国際ルールは制定されていない。
1960年代後半には、呉清源先生(九段)と林海峰九段の師弟に傾倒して清峰会という後援会を設立した。1970年の大阪万博のパビリオンで、世界で初めてコンピューターに碁を打たせたが、コンピューターに出題した詰め碁はすべて呉清源先生の新作であった。
残念なことに池田は51歳の若さで、くも膜下出血により帰らぬ人となった。富士通沼津工場の池田記念室には日本最初の実用コンピューターが稼働しており、囲碁ルールの研究ノートも展示されている。
その後、14年の歳月をへて、囲碁の薫陶をうけた部下たちが、時至れりと池田の願いを世界囲碁選手権・富士通杯として実現したのだと私は思っている。囲碁の国際化のために囲碁途上地域だった米国と南米で予選会を開催し、欧州に富士通グランプリをつくり、各国を転戦して優勝者が代表となった。
ありがたいことに、呉清源先生は健康の許す限り富士通杯の会場に足を運ばれている。林海峰九段は第1、2回で2位、第3回で優勝した。池田専務もって瞑(めい)すべしである。
(富士通元宣伝部長)