岡目八目

所雄章さん

所雄章さん

(2)平成に入り加盟校が著しく変動

(寄稿連載 2005/05/23読売新聞掲載)

 関東学生囲碁連盟は学生の自主管理組織。それゆえ連盟会長は、極端な言い方をすれば、棋戦の最終日に賞状を渡し、講評(と称する閉会の辞)を述べるだけのシャッポにすぎないが、悪役を演じなければならない場合が一つだけあった。

 前回言い落としたが、連盟の財政は傘下校の加盟費(と若干の寄付)のみから成る。昭和五十五年の頃(ころ)と言うと、物価が右肩上がりの時代だったから、加盟費の値上げは避けて通れぬ問題であって、その場合会長には、加盟各校の幹事から成る幹事会に出席して、代表幹事をサポートし、あるいはリードする責務がある。そうした裏方の裏話はしかし、ここで止(や)めにして、話題を移すことにしよう。

 その当時の連盟加盟校は、一般の部が一部から八部まで(各部八校ずつ)の六十余校。女子の部が一部と二部(ただし「女子」の場合は特別に、一校からAとBの二チームの出場も認められていた)。出場チームを構成する選手は五名(と補欠二名)。応援の各校囲碁部の学生や先輩までもが大勢詰めかけてきて、会場は――どの教室も――熱気が満ち溢(あふ)れていた。しかし平成に入ると、加盟校は漸減、六年頃には「一般」が四部、三十数校にまで衰退する(ただし「女子」は逆に増えて、三部まで)。私の連盟会長在任中の著しい変動の一つである。

 原因をあえて言えば、コンピュター・ゲームのようなものもなく、学生たちの間で「遊びにおける関心の拡散」とでも言うべき現象のまだなかった時代から、時代が一変したということであろう。

もう一つの著しい変動は、女子選手の実力のレベル・アップである。昭和五十五年頃は(そしてその後も暫(しばら)くは)「一般、一部」で通用するような力量の女子選手はいなかったように思うが、やがて「一般、一部」で活躍する女子選手も散見されるようになり、後にプロ棋士になるような女子選手も出てきたりするという状況が現出する。

(中央大学名誉教授、前全日本学生囲碁連盟副会長)