上達の指南
(4)大手合で全勝し四段昇段
(寄稿連載 2012/10/16読売新聞掲載) 林有太郎先生は大先輩です。堅実無比の棋風と謹厳実直な人柄で、小秀策と言われていました。私も子どもの頃に秀策の打碁はよく並べていましたので、親近感を持っていました。
1930年、私は日本棋院の大手合に初めて参加しました。
当時の手合はすべて段位で決められており、昇段は大手合の成績によったので、大手合が最も重視されていました。大手合は春と秋の2回行われ、私は春季は7勝1敗、秋季は7戦全勝で最終局の本局を迎えたのです。
「実戦図1」の黒1に対して白2とノゾキ返したくなりますが、黒3と突き抜いて碁が緊迫してきました。局後、林先生は、白は気が利かぬようでも3とつぐべきだった、と悔やまれておられました。
「実戦図2」の白8では11と出たいのは山々ですが、黒にイと切られてしまいます。そこで、白8と工夫したのです。黒は9と端から一本当てたのが手筋。というのは、黒9で「参考図」のように単に1とついだりすると、白2で黒3の愚形を強いられてしまいます。その差は「実戦図2」と比べれば一目瞭然でしょう。黒11まで外勢が厚くなったので、私は満足でした。
本局は黒の中押し勝ちとなり、私は8戦全勝で、優勝金牌(きんぱい)と全勝賞を受け、四段に昇段できました。ただし、当時は翌年春に正式に免状を受けるまでは三段で対局するのが慣習でした。
(構成・牛力力)
(おわり)
●メモ● 呉師は母、兄とともに来日し、最初に住んだのが「麻布谷町」だった。今の港区六本木あたり。溜池にあった棋院までは歩いて通える距離だった。1年ほど後、東中野に転居し、その後、西荻窪の瀬越家の隣に移った。大手合に初参加した1930年、呉師の成績は31勝6敗2持碁だった。
写真=当時の日本棋院。空襲で焼失した。
白 六段 林有太郎
黒 三段 呉清源
(1930年)