上達の指南

呉清源師の「生涯一局」その二

(4)名人相手に「三々、星、天元」

(寄稿連載 2009/07/28読売新聞掲載)

 日本囲碁選手権戦に優勝した私と本因坊秀哉名人との一局です。当時、19歳で五段の私が名人と打っていただけるのですから、むしろ気楽でしたが、名人は坊門の権威にもかかわるので気が重かったかもしれません。
 対局は毎週月曜で、3か月以上かかりました。常に黒の打ち掛けが慣例とされ、14回打ち継がれました。
 「実戦図1」をご覧下さい。私は新布石を盛んに打っていた頃なので、黒1で三々、黒3でタスキの星、黒5で天元に打って、囲碁界だけでなく、一般の囲碁ファンもびっくりさせたようです。三々は坊門の禁手で、坊門の棋士たちの気に障ったようです。黒5の天元も当時は奇想天外な手ですが、私としては左右同型の地と勢力のバランスの取れた手と思ったのです。
 細かいながら黒に少し残りそうと見ていたのですが、「実戦図2」の白1が実に妙手でした。これに対し「参考図」のように打つと、黒がつぶれてしまいます。結局、中央黒の味が悪く、白33まで黒5子が取られ、私の2目負けとなりました。
 碁が終わってから、木谷実さんが私を喫茶店に誘って慰めてくれ、その中で、この碁で常に黒が打ち掛けるのは不公平だと力説していました。その4年後、木谷さんと秀哉名人の引退碁が打たれた時、木谷さんが封じ手の採用を主張し、実現されました。
(構成・牛力力)

(おわり)

●メモ● 秀哉名人は当時、59歳。囲碁界に君臨する立場だった。著名人との指導碁などは打っていたが、勝負碁を打ったのはこの対局の9年前だった。「実戦図2」の白1の妙手は、12回目の打ち掛けの後に打たれた。弟子の前田陳爾五段(当時)が発見したとされ、騒動となり、封じ手の採用へとつながる。
写真=1952年の対局風景。右奥は師匠の瀬越憲作八段

黒:五段・呉清源 白:名人・本因坊秀哉
(1933~34年)

【実戦図1】
【実戦図2】
【参考図】